ア |
原判決に記載された争いのない事実等及び原判決挙示の各証拠によれば、上記の一連の勧誘・教化行為の目的は、控訴人のため献金及び無償で物品販売活動等を行わせること及びそのような行為をする控訴人の信者を再生産することによって経済的利益を上げることにあったものと認められるのであり、被控訴人らに対する勧誘・教化行為の目的も同様であって、献身後、過酷な伝道活動や物品販売活動に従事できる者を獲得することにあったものと認めることができる。そして、その勧誘に当たり、上記の目的を隠し、かつ教義とは関係がない先祖の因縁話や霊界の先祖からの働きかけ等の話をしたり、心理的弱みを突いて不安をあおり、ある程度教義を教え込んだ後は、控訴人の教義を知った者がこれから離れると、より罪が重くなり、死後霊界で低い場所に行って苦しむとか、先祖の救いの道が絶たれ、霊界で先祖に讒訴されるなどと述べて、控訴人の教義から離脱することを困難な精神状態にして献身させたものと認められるのであるから、そのような勧誘・教化行為は違法であるといわなければならない。
控訴人は、被控訴人らは統一原理を学ぶに従って控訴人の教義に感銘を受け、次のステップに進んでいったのであり、勧誘・教化行為によって畏怖困惑させた事実はない旨主張し、被控訴人らが紹介者等に送った手紙等の記載内容がその証左である旨主張するが、被控訴人ら本人の原審供述及び甲第232、第233号証、第237号証並びに弁論の全趣旨によれば、被控訴人らは、消極的な気持ちを持てば先祖が救われないとか、恐怖を持って活動するのはいけないとか、手紙に不安と恐怖を書くことはカイン的行為であり、神から離れる行為であるなどと言われ、霊の親やアベルに宛てた手紙等には、恐怖心を隠し、自分を奮い立たせるような内容や感謝の気持ちを書いていたものであることが認められるから、上記の各書証は、被控訴人らが勧誘・教化行為によって畏怖困惑させられたことを覆すには足りない(なお、上記のとおり、控訴人が指摘する上記の各書証は、勧誘・教化行為によって被控訴人らが畏怖困惑させられたことの反証たりえないということであって、この認定にかかる事実が、反証可能性のない非科学的な命題であるということにはならない。)。
また、被控訴人らが宗教に救いを求めなければならないような苦悩があったわけではなく(被控訴人らは、控訴人の信者らの勧誘により、ビデオセンターが控訴人の教義の伝道活動を行っているとは知らないまま、ビデオ受講を受けるようになったものである。)、被控訴人らの恐怖心は、上記の勧誘・教化行為によって植え付けられたものであって、もともと被控訴人らの心の中に内在したものではなく、また、被控訴人らが献身した時の精神状態が、回心と呼ばれる宗教的体験と同じであるというべき根拠もない。
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イ |
控訴人は、罪悪感や恐怖心を植え付けられたという被控訴人らの主張が仮に真実であったとしても、そこで告知されている害悪は、それを語る者の力の及ばない超自然的なもの、あるいは、目に見えない無形世界に関することであり、具体的な害悪を直接的に告知して相手を脅したことにはならないとか、それを信じずに一笑に付せば何の不安も感じる必要のない類の話であって、違法行為を構成するものではないと主張するが、被控訴人らがそのような害悪の告知によって恐怖心を抱くに至ったのは、因縁話や心理的弱みを突くなどの方法を使用した上記の勧誘・教化行為によるものであって、この事実は、被控訴人らが上記の勧誘・教化行為によって正常な判断力、批判精神を失うに至ったことの証左というべきであり、そのような勧誘・教化行為が違法であることは明らかである。ビデオ受講者の中には献身までいかなかった者も相当数に上るといった事実があったとしても、この認定判断が左右されるものとはいえない。
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ウ |
控訴人は、教義の伝道の手段・方法の選択及び決定は、宗教団体あるいは信者に任されるべきものであって、教義の布教において、直接教義に関係のない姓名判断や家系図判断が使用されたとしても、その中で読みとれる事実が話されるならば、それは伝道の方法として許されるべきであり、その方法に司法が介入することは許されない旨主張する。しかし、前示のような不当な目的があることを隠し、宗教団体の勧誘・教化行為であることを明確に答えなかったり、これを否定したりした上、何ら科学的・合理的根拠のない姓名判断、家系図判断(控訴人は、「姓名判断や家系図判断の中で読みとれる事実」などという表現もするが、科学的・合理的根拠のないものであることには何ら変わりがない。)を勧誘の方法として利用することは、社会的相当性を欠くものといわなければならない。他者の救いや幸福のため宗教の伝道を行うものであれば、これを隠すような合理的理由があるとは考えられないところである。
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エ |
原判決が認定するとおり、物品販売活動等 については、実績が重視され、これに従事して
いた献身信者は、過酷な生活を送っていたものであって、「班長マニュアル」である甲第65号証もその反証にはならない(かえって、この「班長マニュアル」に、信者の睡眠時間についてわざわざ「4時間以上とし、」と記載されている事実に照らせば、献身信者の中には睡眠時間が4時間に満たない者もいたことがうかがわれるのであり、そして、4時間程度の睡眠時間では健康を維持するのに十分であるとはいえないところ、上記の記載は睡眠時間4時間であれば一応その基準を充足するという趣旨であると解されるから、「班長マニュアル」のこの点の記載が、信者の健康を配慮したものであるということは到底できない。また、この「班長マニュアル」には、実績管理は心情管理であるとした上、「反省会では熱い心情とクールな実績と言われるくらい、外的実績の把握が大切である。」とか、「数字は嘘をつかないので、数字を通して兄弟の心霊管理ができるよう心がけること。」と記載されており、心情管理とはいいながら、実際は実績を重視する考え方が述べら
れているのであって、この証拠によっても、献身信者らの活動について心情至上主義が採用されていたとは認めることができない。)。また、この物品販売活動は、客観的には信者らに過酷な条件が課された利潤追求行為にほかならないところ、信者らは、上記のような勧誘・教化行為によりこれが宗教的な意味がある行為であるかのように教え込まれていたのであるから、このような活動に従事する信者を再生産するために伝道行為を行うことに正当な目的があるとは認めることができず、違法行為に当たるものというべきである。なお、控訴人の信者らに障害者が含まれていたとしても、これによって、この勧誘・教化行為が不当な目的を有していたとの認定が左右されるものとはいえない。
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オ |
控訴人は、「アベル・カイン」の教えは、組織論ではなく、信仰生活上の人間関係を通して自己の内面を成長させていくための宗教的な教えであると主張するが、原判決が、事実及び理由欄の第3、3(2)、エ(イ)で説示するとおり、献身信者の間において、この教義が控訴人が主張するような宗教的教えであると一般に解釈されていたものではない。この教義は、実際の信者の行動に関する指針として、信者が上司ないし先輩に服従することであると教えられ、理解されていたものであり、信者らの実践活動の場においては、一般信者らは班長等の命令に従うべきであるという行為準則としての役割を果たしていたものである。
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